プロレスマスクの原点を探る|1865年パリ万博から始まった“覆面の伝説”
- 辰也 植松
- 5月20日
- 読了時間: 7分
みなさんこんにちは、
デザイナーのウエマツです。
私たち、プロレスデザインラボでは、「ラボ」という名前の通り、プロレスやそれに関するデザインをデザイナーという視点から研究・考察していくことも大事な活動と考えています。
前回の記事では、
『嘘を信じた観客と作り手の共犯関係|NWAが築いたプロレス×エンタメ戦略』
と題して、プロレスを軸にブランディングやIPビジネス、そして顧客体験の本質にまで触れています。

そこで今回は、みなさん大好きなプロレスのマスクの起源について深掘りしていきたいと思います。

リングに上がった瞬間、レスラーのマスクは単なる被りものではなく観客の心に語りかける“もう一つの顔”になります。
煌めくメタリックが勝利への自信を映し、獣を象ったシルエットが闘志を増幅させる。
その数ミリの生地には、選手の過去、団体の歴史、スポンサー企業の理念さえ縫い込むことができるのです。
今回の記事では、「プロレスマスクの起源と進化」をテーマに、その文化的背景や象徴性を深掘りしていきます。
マスクの歴史を知ることは、プロレスの奥深さを知ること。
そして、選手自身の「見せたい姿」をどうデザインに落とし込むかという、ブランディングのヒントにもつながります。
フランス → 北米 → メキシコ → 日本へと連なる系譜を、ビジネス視点も交えて読み解いていきます。
世界初の覆面レスラーは誰?|1865年パリ万博で誕生した“マスクドレスラー”

覆面レスラーの歴史を語るうえで、意外なほど古いルーツを持つのが、1865年のフランス・パリで開催された万国博覧会に登場した「セオボー・バウアー」という人物です。
彼は “The Masked Wrestler(ザ・マスクド・レスラー)” として舞台に立ち、観客に大きなインパクトを与えました。
(残念ながら画像は見つけられませんでした。)
現在のようなレスリングマスクとは形状も意味合いも異なるものの、ここが記録に残る“世界初のマスクマン”の登場とされています。
これは、メキシコの伝統よりも前に、ヨーロッパの興行レスリングで覆面が使用されていたことを示しています。
この当時のレスリングは、今のようなショービジネス色はまだ薄く、サーカス団に所属してフランス各地で見世物的なプロレスをやっていたそうです。
その中で彼がマスクを被って登場したことは、純粋な“目新しさ”という点でも充分に観客の興味を引き、話題性を生むという点で、極めて効果的な演出だったのではないでしょうか。
マスク文化の原点|1915年「マスクド・マーベル」が切り開いたエンタメの未来


1915年、ニューヨーク・マンハッタンのオペラハウス。
ニューヨーク国際レスリングトーナメントの会場で、突然観客の間を通り抜け、ステージ近くに座った男。
それが北米初の本格的マスクレスラー「マスクド・マーベル(Masked Marvel)」でした。
正体はベテランレスラー、モート・ヘンダーソン。
無言のまま腰を下ろした彼は、間もなく立ち上がってリングへ歩み寄り、挑戦状を叩きつけます。
試合に飽き始め、観客も減り始めていた会場は一転して大歓声に。
メディアも色めき立ち、翌日の新聞はこぞって“覆面レスラー出現”を報道。
口コミも手伝い、以後の興行は連日満員となります。
ベテランレスラーではあったが、ごく普通の男が“謎” という演出をまとった瞬間、一夜でスーパースターへと変貌したのです。
その後もマーベルは北東部を転戦し、各地で“覆面ブーム”を誘発していきます。
重要なのは、このギミックが単なる奇抜さではなくビジネス的にも画期的だった点です。
ベテランレスラーの再生ルート(正体を伏せることで過去の勝敗をリセット)
新規客の動員装置(謎が謎を呼ぶストーリー性)
マーチャンダイジング(覆面グッズの販売)――これらは現代のエンタメ・マーケティングにも通じる考え方と言えるでしょう。
マスクド・マーベルの成功は、後のメキシコ・ルチャリブレや日本プロレスにおける“マスク文化”の芽を北米で最初に発芽させた出来事でした。
つまり「顔を隠す」ことがレスラーの価値を何倍にも拡張する。
その可能性を証明した起点が1915年ニューヨークだったのです。
覆面が“文化”になった国――メキシコのルチャリブレ

メキシコ・ルチャリブレにおいてマスク(マスカラ)は、もはや“コスチューム”ではなく アイデンティティそのもの です。
1933年、サルバドール・ルテロが設立した EMLL(現 CMLL)が興行の目玉として覆面レスラーを起用した瞬間から、ルチャリブレはヒーロー的神話性を帯びました。
1934年9月、米国人レスラーのサイクロン・マッキー(Cyclone Mackey)(一部のメディアは彼がアイルランドで生まれたと言及)
が、メキシコシティで“覆面レスラー”として初登場。

アレナ・メヒコに姿を現した謎の男、
La Maravilla Enmascarada〈ラ・マラビリャ・エンマスカラーダ(英語表記Masked Marvel、マスクド・マーベル)〉


北米流の覆面ギミックを持ち込み、素性を伏せたままテクニカルな関節技で地元スターをなぎ倒していく。
正体の分からない強豪は観客の想像力を刺激し、会場は連日札止め。
マスコミは「覆面男の正体は誰か?」
と連日一面で報じ、これがルチャにおけるマスク文化の扉を開くきっかけとなりました。
覆面文化の礎を築いた職人──アントニオ・H・マルティネスと最初のルチャマスク

初めてルチャリブレ用マスクを制作したとされるているのは、
革職人の『アントニオ・H・マルティネス』です。
アントニオは、革の名産地レオンで育ち、若くしてメキシコシティへ移住。
ルチャリブレが登場し始めた時代に、その鮮烈なビジュアルに魅せられ、熱心な観客の一人となりました。
現場でレスラーたちと親交を深める中、アメリカ人レスラー「サイクロン・マッキー」から“試合で使うマスク”の製作を依頼されます。
こうして誕生した最初のルチャリブレ用マスクは、見た目が質素で、装着時のフィット感にも課題があり、「壮大な失敗」と評されます。
マッキーは激怒し、支払いを投げつけて去ったという逸話も残っています。
その後、あれはその当時の職人にできる“最善”だったのだと気づきます。
そこから彼とアントニオは再び協力し、改良を重ねていくことになります。
マルティネス家では、現在もそのオリジナルマスクを大切に保管しており、興味を持った訪問者がいれば、奥の部屋からそっと取り出して見せてくれるそうです。
そのマスクは、平たくて紙のように薄く光沢もありません。
これがアスリートの試合で着用されていたとは想像しづらい、素朴なつくりです。
個人の顔の複雑な凹凸にフィットし、激しいスポーツの中でも呼吸がしやすく柔軟であること。
この要件を満たすマスクを作るのは、想像以上に難しく、その完成には数十年にわたる試行錯誤が必要でした。
アントニオ・H・マルティネスは、まさにその「完璧なマスク」を追い求め、生涯をかけてその理想の形を追求し続けたのです。
この一見地味なマスクこそが、覆面レスラーというジャンルを成立させ、のちの巨大なエンターテイメントに連なる第一歩となったのです。
まとめ
今回は、プロレスマスクの“起源”を掘り下げてみました。
1865年のフランス・パリ万博に現れた世界初のマスクレスラーに始まり、1915年ニューヨークで一夜にしてスターダムに駆け上がった「マスクド・マーベル」。
そしてメキシコの地で文化として根付いていくルチャリブレ。
その裏側には、多くの英雄たちの物語がありました。
覆うことで本質を浮かび上がらせる“マスク”は、もはやただのコスチュームではなく、リング上で選手の物語を立ち上げる「文化装置」とも言えます。
今後は、ルチャリブレの発展や、日本でのマスクの受容と進化などについても書いてみたいと思います。
次回もお楽しみに。
ウエマツでした。

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